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親善大使からのメッセージ(~2009)

親善大使からのメッセージ(~2009年)

ドイツ ウテとウド・シュルケ夫妻

親善大使として8年間住んでいた豊橋と連絡を取り合えてうれしいです。

変わりなく、妻のウテと一緒にヴォルフスブルク(フォルクスワーゲン本部がある都市)に住んでいます。ここのドイツ・日本協会とインターナショナル・サークル・オブ・フレンズの会員です。日本の友達、訪問先、豊橋日独協会、佐渡島の鼓童太鼓の鼓手達と、まだ良い関係を続けています。日本は大好きです。
(2009年12月23日にメールが届きました。)

中国 王賀英さん(大学教授)

2000年6月に帰国して以来、私はずっと中国瀋陽師範大学外国学院日本語学部に勤め、日本語ヒヤリング、日本文学史、日本事情などの講義を担当しております。2007年8月から2008年3月までわたしは客員研究員として、留学していた愛知大学に半年くらい滞在しました。
(2009年12月20日にメールが届きました。)

バングラデシュ モニルッジャマン・モハマドさん (大学助教授)

ドイツのマックス・プランク研究所で研究主幹として働いています。ここで科学者として働くのを楽しんでいます。
(2009年11月30日にメールが届きました。) 

 豊橋の技科大生の頃を思い出します。豊橋の思い出でとくに懐かしく思うのは花見(桜まつり)です。
 (2007年10月31日にメールが届きました。)

ネパール アンジュ・レグミさん (大学生)

 ネパールの首都カトマンズに住んでいます。子供は12歳の娘と5歳の息子がいます。夫はカトマンズ・クリトゥプル・トリヴワン大学の助教授です。私は社会福祉を勉強しており、「カトマンズ区の学校におけるモンテッソーリ法・非モンテッソーリ法・混合教育システムの比較研究」をテーマとした論文に取り組んでいます。
(2009年12月1日にメールが届きました。)

ブータン クィンガ・ナムゲさん(技術者)

2000年に国(ブータン)へ帰ってから2007年まで水力発電所で働いていました。2年間、水力発電所の建設担当の部署にいましたが、現在は水力発電と建設を両方専門とする別の会社で働いています。
(2009年11月30日にメールが届きました。)

イタリア ステーファノ・ボヴェーリオさん (大学教授)

今はまだパヴァーイ市(イタリア)に住んでいますが、職位が変わりました。数年前、教育省が音楽専門の新しい中学校の種類を作りました。この種類の学校では生徒が楽器を一つ選び、その楽器を専門的に3年間学びます。(この学校の生徒は音楽専門学校に進学でき、その後も音楽大学で勉強できます。)

2008年9月にパヴァーイ市の30km南にある、この新しい種類の学校のサキソフォンの教授になりました。サキソフォンがある学校は4校しか無いですし、この地域にいるクラシカル・サキソフォン奏者は私しかいませんから、とても運が良かったです。(このような学校で教えるにはクラシック音楽を学んだ経験が必要となり、ご想像のとおりサキソフォンはジャズとよく連想されます。)

ほかの活動も同時にやっています。パヴァーイの小学校で音楽教育を(週6時間だけ)教えており、年末に生徒の親のために、和太鼓音楽の小さな演奏会を開催することになりました。(日本にいたとき私は太鼓団に入っていました。)しかし、この国では本物の太鼓がまったく見つからなく、西洋の打楽器か、鍋と木製スプーンのようなものを使わなければいけません。

また、イタリアでかなり有名な吹奏楽団(ソンチノ吹奏楽団)で演奏しており、独奏者と四重奏団でコンサートをやっています。

豊橋国際交流協会の会報誌にイタリアについてのエッセイを投稿したり、昨夏豊橋へ旅行した時には市民文化会館で、妻と豊橋の奏者と一緒に演奏もしました。このように、時折豊橋との交流をしています。
(2009年12月1日にメールが届きました。)

ここイタリアでは、もう秋になり、木にはもう葉はありませんが、天気は悪くありません。 音楽の大学で教授としての仕事が始まりました。また、3つの小学校でも音楽を教えています。

学校初日、生徒の3割は外国から来ていることに驚きました。私が学生の頃、外国人は珍しかったですが、今、私の生徒の中には中国、タイ、韓国、ルーマニア、ロシア、トルコ、セネガル、モロッコ、メキシコから来ている子もいます。中にはまだイタリア語が話せない子もいるので、良きコミュニケーションをとれたらと、励んでいます。

イタリアは、11月のはじめに日本のお盆のようなものがあります。私の家族は、2日間ごちそうを食べ続けた後、サン・マリノに行きます。 (2007年11月1日にメールが届きました。)